救いの証(あかし)

救いの証(あかし)

私たちがどのような過程や経験を通して、イエスを自分の神として信じるようになったのか。そんなお話しをする ことをクリスチャンの間では、
〔救いの証し〕と呼んでいます。
NGCにやって来る多くの人がそれぞれに、イエスの存在を個人的に体験し、聖書に書かれていることは真実であ るという確信に導かれています。
イエスが本当に神なのか探求している方、信仰は持っているけど近ごろ元気がなくなっちゃった人、ただひたすら に神様をもっと賛美したい人・・・。
皆さんが今どんな状況にあろうとも、神様がNGCの仲間の証を通してあなたの心に大きくふれて下さいますよう に。

 

「神様のめぐみによって」(こーじ)
testimonyPic_Kouji私は8人家族、4人兄弟の長男として生まれました。幼い頃の私は内向的性格であったため、他の子供たちと遊ぶのがうまくありませんでした。家の中では妹や弟を相手に楽しげに遊んでいましたが、ひとたび外へ出るとかなりの人見知りをしていました。そのような中で私が選んだ心の支えは「道徳」でした。他の人の見ていないところでも何か良いことをしていればその報いがあるはずと信じました。対人関係の中でうまく自己表現できなかった私は、道徳を遵守することで自分らしさを表そうとしたのです。目で見えることにおいて劣等感を感じることは多々ありました。ある子は私の持っていないおもちゃを持っていたりしました。ある子は運動が優れていたりしました。しかしそのような子を見るとき、私は自分に言い聞かせていました。「自分は彼らと違って日頃良い行いをしている。掃除は真面目にやるし、授業は真面目に受けている。それに皆がやっている悪いことも自分はやっていない。」と。事実私は今でもタバコは吸いませんし、ゴミを道に投げ捨てたりはしませんでした。
しかし昨年、私は自らの支えであった道徳を自らの行いによって犯すこととなりました。確かに小さな部分においてはすでに道徳を守れていなかったわけですが、その時決定的に道徳に背くこととなりました。その時私は自らの基盤を失い、そればかりでなくそれまでの支えであった道徳に心が責められるようになりました。自らの力でその罪を償えないことが私に絶望をもたらせました。生きる限り、また死して後もこの罪にしばられてゆく思いがしました。
最も私が生きる希望を失っていたとき、神様は1人の青年を用いて私にキリストの福音を伝えて下さいました。彼はシンガポールから福音を伝えるために日本に渡って来ていたルーク・マンチョンでした。彼は日本語がわかりませんでしたので、私はほとんど彼の言っていたことがわからなかったのが実状でした。しかし彼はそれでも福音のタネを蒔いてくれました。学校の芝生の上で彼が伝えてくれたことは、神が私を愛して下さっていること、しかし私の心が神様を認めようとしなかったためその恵みが受けられなかったこと、そして罪人である私を神様の前にたたせるためその罪の身代わりが必要であったこと、それがキリストの十字架であったこと、でした。
その時はなぜキリストの十字架が罪を消すのか全くわかりませんでしたが、次の聖書の言葉は心に残りました。エペソ人への手紙2章8、9節にあります。
「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことでなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」
それまで行いにより自らを義としていた私、そして恵みは天よりのものでなく自分自身より出るものと信じていた私、そしてそれゆえに罪に苦しんでいた私には全く価値観が逆の世界でした。
そして更に聖書の言葉は私を救いに導いてくれました。ローマ人への手紙5章20節にあります。「しかし罪の増し加わるところには恵みも満ちあふれました。」私を苦しめていた罪は恵みへと変えられるという約束です。神はこのような罪深い人間を赦され、このようなもののために命を捨てられ、このようなものを義とされました。このようなことはかつて聞いたことはありません。人の作り出した価値観は私を責めました。道徳も仏教も私を不義な者と裁きました。唯一神、イエス・キリストだけが手を差し伸べて下さったのです。
私は今、神様に愛されています。その愛の故に多くの人を愛せるようになりました。かつて自らの行いを支えにしていた私は、そのため多くの人を行いで裁いていました。今は完全にではありませんが、少しずつ嫌っていた人、疎んでいた家族、憎んでいた友人を愛せるようになってきました。自分を嫌っている人がいることを知っています。でもその人たちのことを思い、祈ることができるようになりました。全て初めに私を愛して下さった神様の恵みです。
皆さんの中でまだ神様の愛に気付いてない方がおられるかもしれませんが、神様はその愛を無条件で与えて下さいます。どうかそのような方はその愛を求めて下さい。神様は必ずその思いに応えて下さいます。

 

「わたしの主」(せつこ)

testimonyPic_Setsuko私は、キリスト教とは無縁の普通の日本人家庭の長女として生まれました。幼少の頃は、多くの親戚から愛され、 自信にあふれ積極的な面もありましたが、一方で、不安定な大人の世界で不安と恐れをかかえて生活していたと思 います。
小学校2年生のとき、近所の友達からきれいな聖書の言葉と絵が描かれたカードをもらったのが、きっかけで、近 くの教会に行くようになりました。そこで、初めて、イエスキリストという神様について知り、またこの方にお祈 りすることができることを知りました。それまでの私は、心が痛む時、不安な時、失敗した時などは、おじさんに おそわった、「1から10まで数えるとイヤな思いが消える」、というおまじない的なことをしていました。それ によって、自分を慰めたり、勇気づけたり、心の切り替えをしていたのです。でも、教会で、イエス様の話しを聞 いた時から、私は、この方になんでも祈ることができることを知りました。そして、人に見せたくない心の内を、 イエス様に、祈りを通して打ち明けるようになりました。また「恐れるな」との聖書の力強い言葉も私の心の支え となっていきました。教会学校の先生方の温かい励ましと愛も今思えばどんなにか私の支えだったことでしょうか 。
しかし、中学になっても、イエスキリストの救いという意味を、充分には理解できないでいました。もちろん、自 分の罪深さはよ~くわかるし、神様は心の支えで聖書は生きる教訓でしたが、今一、十字架が私のため、と実感が なかったのです。
そんな私に大きな転機が訪れたのは、高校3年のことです。それまで、私はバスケットという部活動に没頭する生 活を送っていました。大きな大会にも出場する半端でないクラブだったので、まさにバスケに献身してしまった2 年間でした。当時の私は、学校、部活第一主義で、そのため礼拝に出られなくてもやむを得ないと、なんの疑問も なく思っていました。困ったときの神頼み的信仰でしかなかたのです。しかし、いざ部活を引退すると、その心は 虚脱感で空しく、自分は一体何を目指しているのかわからなくなりました。教会学校育ちの私は、当然のように、 教会に足を運び、「もう一度神様に真剣に向き合おう」と主の御心を求めるようになりました。その時心に響いた 聖書の言葉は、「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはす べて与えられます。」マタイ6:33 でした。 私は「揺るがないものがほしい、今度こそは、自分勝手な信仰 ではなくて、誠実に神様に従いたい」と思い、私の人生を主にお委ねし、洗礼を受けました。高校3年の9月でし た。
その後の事です。今日のように、洗礼のお証しを準備して祈っていたとき、それまでにない、主の臨在に包まれて 不思議な体験をしました。祈りの中で、それまで私を面倒見てきてくださった、教会学校の先生の顔が走馬灯のよ うに私の脳裏に映し出されて、最後に十字架にかかったイエス様の姿がはっきりと見えました。そして「私は今ま で、多くの人を通してあなたを愛してきたのだよ、そして今、私はあなたのために、こうして十字架にいるよ」と 優しく語っておられるようでした。私は聖霊様の愛に打たれて涙が止まらなくなりました。それまで十字架の恵み というものがぼんやりとしか分からなかった私でしたが、初めて聖霊様により、イエス様がどれほど私を愛してい てくださったかが実感できました。そして、イエス様が私の罪のために十字架にかかられたのだという事を悟る事 ができました。また、神様を信じているといいながら、自分勝手な信じ方でしかないことに気づきました。部活中 心で神様中心でなくても心を痛めることない、その程度の信じ方を心から悔いました。神様に心から従って、神様 を本当に主とする生活をしたい、と思いました。
このことを経験した私は、目に映るもの全てが新しい、主と共に歩む事に心からの幸せを感じていました。また、 高校3年の受験前の時期でしたが、よくクラスメートにイエスさまの話しをしたり、聖書を渡したりしていました。友人の中には私の話しに耳を傾けてくれて、教会に来てくれた友達もいました。
私にとって、神様は、もはや心の支えというような「お守り」的存在ではなく、神様は本当に私の「主」になりま した。このお方あっての自分だということがよく分かるようになりました。
その後も、「神の国を第一に求めなさい。そうすれば、、、」という救いのみ言葉が私の生き方そのものとなり、 シンプルですが、単純に信じてその通りの祝福を数え切れないほど体験しました。外国で一人暮らしの生活に困っ たときも、学費のことで行き詰ったときも、不思議と道が開かれました。「私はどんな生活でも、どんな道に進も うとも、あなたが閉ざすなら、それに従うし、あなたが開くならそれに進みます。主の御心に従います」と委ねて 行くとき、心に平安があり、喜びがありました。
イエスさまに救われ、赦され、愛され、イエス様を「主」として従う人生は本当に楽しく、幸せです。この平安と 喜びをひとりでも多くの人にこれからも証ししていくこと、これが私の一番の願いです。主に感謝します。

 

「罪、許されて」(うっしぃ)
testimonyPic_Ushi就職して最初の赴任地、札幌での出来事です。私は青年期は宗教的なことを一切排除し、自分の確固たる信念や価値観、道徳観、人生観もない好き勝手な日々を送っていました。仕事は楽しかったのですが、休みになると目的が持てずに時間をもてあまし、借金をしてまで競馬やパチンコにはまっているという有様でした。自分が何を目指して生きていいのか答えが見つからず、満たされない気持ちでいっぱいでした。 職場に、二人のクリスチャンがいました。一人は同じ年で、クリスチャンホームで育ったH姉妹。もう一人は、牧師夫人。同じ年の人とは、ペアを組んで仕事をしていました。
そんなある日、H姉妹に、「教会でフルートを吹くんだけど、聞きに来ない?」と誘われました。 当時の自分にとって教会に行くということは、想像もつかないことでした。 宗教にすがるというのは、自分が弱い証拠だ!と思っていましたし、「教会に行ったら、入信を勧誘されるのではないか?」「しつこく誘われ続けるのではないか?」という思いがよぎりました。
しかし、二人のクリスチャンのように、穏やかで清楚な感じの人間に対する憧れもちょっと感じ始めていたことと、H姉妹とうまく仕事をし始めていたので信頼関係を崩したくないという気持ちで教会へと足を向けました。
しかし、最初に聞いた牧師先生のメッセージで躓きます。
「イエス・キリストだけが、人の罪を背負い赦すことができる」
「私だって、十字架にかかって、他人の罪を赦すために死ぬ覚悟はある」
走れメロス!を想像しながら、礼拝後、牧師夫人に食って掛かりました。
自分に汚い部分があることをすっかり棚に上げ、自分の生き方にはまったく問題がないと思っていたのです。
その後も、何度か教会に足を運びました。交際していたノンクリスチャンの女性と一緒に行くこともありました。しかし、とうとう自分の本当の汚さに気づくときがきました。交際していた女性を裏切ったのです。他に好きな女性ができたから、というそんな身勝手な理由でした。しかし、その裏切りは、自分自身の心に大きなしこりを残しました。自分には何の汚い点もないと思っていたのに、人を傷つけてしまった。
そのことをきっかけに、過去に自分が犯してきたことが走馬灯のように思い出されました。1時間以上話しても語りきれないほどです。
自分がどんなに汚く、自分勝手で、人を傷つけてきたか悟りました。
自分が強いと思っていたのは、過信であり、本当は弱く、小さく、汚い者である。つまり、私自身が、牧師先生が言っていた「罪ある者」だったのです。この自分の罪をも背負って、イエス様は十字架にかかってくださった。自分ではどんな方法をとっても、罪を振り払うことはできません。しかし、神様は、そんな自分の罪を、ひとり子イエス様に負わせて私を赦してくださる!とおっしゃる。本当にそれこそ神頼み!でした。自分の罪に苦しんでいたときに、また、私は教会へと自然と足が向くようになっていました。
自分の力では、もうどうすることもできないと思ったとき、神様は、次のみことばをもって私を導いてくださいました。
もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”
(Ⅰヨハネ1:9) その神様の愛のメッセージを全身で感じてから、私の物事に対する考え方は変わっていきました。
その後すぐ洗礼を受けた私は、自分が正しい、自分の力で何でも解決できる、という考えから、イエス様の生き方に近づきたいという思いに変えられていきました。当時、職場でいつも陰口をたたかれ、どうしても許せない同僚がいました。「自分を攻める相手をも愛するイエス様」の生き方に触れ、徐々にその人を許せるようになっていきました。どうして陰口をたたくんだ!という気持ちではなく、相手を許し、愛するつもりで接することができるようになると、その後は、不思議と、陰口をたたかれることもなくなっていきました。
もちろん、今でも仕事上、人間関係のトラブルはよく起こります。そんなとき、相手を攻める気持ちを持ったり、怒りがしばらく続くこともあります。しかし、そのトラブルを通じて、神様は何か私にメッセージを送ってくださっているに違いない。そして、御声を聞こうと必死に祈っている間に怒りが収まっているということは、数え切れません。本当に神様に愛されているんだな、と実感する瞬間です。
新天地のこの教会では、養育コースを受けさせていただいています。 学びと分かち合いの大切さを実感させていただいています。毎朝のディボーションも習慣となり、学びを通じて、新しい地での役割を神様から与えられようとしています。ともすると自分の力に頼りがちになりますが、毎朝ディボーションをすることで、神様に聞き従うことをいつも諭していただけるようになりました。いつも神様に愛されている実感がある分、神様の栄光を現せるようになりたいと思います。
“だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。”
自分の罪を赦していただくための十字架から、今は、自分の役割、使命としての十字架を祈り、求めています。